会津藩主 松平肥後守容保
【画像:会津藩主 松平容保】
「京都守護職」とは、幕末の京都で設置された江戸幕府の官職です。
京都所司代や京都町奉行、新選組などを配下に持ち、御所の警護や過激派志士達の鎮圧に尽力しました。
文久2(1862)年12月、京都守護職に任じられた会津藩主・松平容保は約1,000名の兵を引き連れて入洛しました。
三条大橋に到着した一行を京都所司代や京都町奉行が出迎え、宿舎・金戒光明寺までの間、行列を見ようと集まった町衆は一里(約4km)余りにも渡ったといいます。
御所の西側、現在の京都府庁付近に上屋敷があったほか、本陣の黒谷に近い聖護院村には、広大な練兵場が設けられ洋式兵法の調練が行われていました。
藩祖・保科正之が残した家訓「将軍家に忠誠を尽くすこと」に従い、「8月18日の政変」や「蛤御門の変」をはじめ、都の治安維持に多大なる貢献をしましたが、慶応3 (1867) 年 12月、王制復古の大号令とともに廃止されました。
京都守護職 会津藩御預
【画像:新選組局長 近藤勇】
【画像:新選組副長 土方歳三】
文久3(1863)年2月、将軍徳川家茂上洛の警護のために結成され上京した浪士組のうち、都に留まったのが、後の新選組の中心メンバーとなる近藤勇や土方歳三、沖田総司らでした。
壬生村に駐屯していたため「壬生浪士組」と呼ばれた彼らは、同年3月、京都守護職の松平容保に拝謁し、「京都守護職会津藩御預」の身分を得て、市中警護の任務に励みました。
「8月18日の政変」での働きによって、武家伝奏より「新選組」の隊名を授かり、その翌年の「池田屋事件」では、僅かな人数で旅籠・池田屋に踏み込み、不穏な計画を画策していた志士達を大勢取り締まりました。
最盛期には200名あまりが在籍していた新選組ですが、鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と運命を共にし、明治2(1869)年の函館・五稜郭の戦いで終焉を迎えました。