寛治4(1090)年、白河上皇の護持僧・増誉大僧正の開創で、本尊は不動明王です。

白河上皇の熊野御幸の先達を勤めた功績によって「聖体護持」のうち、2字を取った寺「聖護院」を賜り、本山派修験の総本山となりました。

最盛期には2万余の末寺をかかえる一大修験集団となり、明治維新までの間、代々皇族や摂関家が住職を務めてきました。

 

元治元(1864)年2月24日、京都守護職・会津藩が寺領の聖護院村(現在の京都大学医学部附属病院周辺)に37,000坪の練兵場を作ったことが記録に残っています。

会津出身の北原雅長の著書「七年史」や同・飯沼 一省著「会津松平家譜」等には、幕府から軍備拡張を命じられた会津藩主・松平容保公が勝海舟や佐久間象山にその方法を問うたうえで洋式軍備に改めようとしましたが、旧来の兵法を好む藩兵が多かったため、難航したことが記されています。

【 住 所 】   京都市左京区聖護院中町15(京都市バス「熊野神社前」下車、徒歩約3分)

【電話番号】  075- 771-1880

聖護院門跡 公式ホームページ



【幕末維新の頃の聖護院】

【画像出典:花洛名勝図会 東山之部  三】

 

・かつて、聖護院の辺りには鬱蒼とした森が広がっていました。

紅葉が錦の織物のように美しいとして「錦林(きんりん)」と呼ばれ、今も地名として使われています。

 

幕末、この界隈には富岡鉄斎や梁川星巌、大田垣連月など多くの文人が居住していたほか、薩摩藩、越前藩、土佐藩、加賀藩などの藩邸が営まれ、大いに賑わいました。

 

また、聖護院門跡と京都守護職の本陣が置かれた金戒光明寺は直線距離で約500mと程近く、会津藩士や新選組隊士達も、この辺りを闊歩していたことでしょう。

 

・嘉永7(1854)年4月6日、内裏が炎上した大火(通称毛虫焼け)が起こりました。

この時、難を逃れた孝明天皇と皇子祐宮(明治天皇)は、聖護院門跡を仮皇居とされ、桂宮邸の仮御所へ移られるまでの間、お住まいになりました。

・~いつよりも わきて心の長閑けきは 都の春に あへばなるらん~

(いつにも増して心穏やかにいられるのは、都で春を迎えることができたからでしょう)

 

明治3(1870)年、新年を聖護院で迎えた静寛院(和宮)が詠んだと伝わる一首です。

和宮は孝明天皇の妹で、文久元(1861)年に朝廷と幕府の関係性を保つため、14代将軍徳川家茂に降嫁し、江戸に移り住みました。

夫の没後は落飾して「静寛院」と称し、徳川家の人間として江戸城無血開城に貢献しました。

明治2(1869)年2月に帰京した静寛院は、聖護院を仮殿として1年余り暮らしました。冒頭の歌から読み取れるように、穏やかなひとときをここ聖護院で送っていたのかもしれません。


【主な年間行事】

修験講習会

毎月1日・21日(変更になる月あり、要確認)

19時~20時

※緊急事態宣言発令中は中止、講習の2日以上前に解除されれば再開

仏教やお経について学ぶ、一般向けの講習会。どなたでもご参加いただけます。


月例柱源(はしらもと)護摩 

毎月28日(2・8・11月は変更)

10時と14時の二座、本堂にて護摩が厳修されます。終了後は特別に間近でご本尊・不動明王像や役行者像を拝することができます。


節分会

2月2日・3日

両日とも、境内を鬼が練り歩きます。2日は堂内で柱源護摩が厳修され、3日には福豆まきや採燈大護摩供が行われます。


高祖役行者報恩大会

6月7日

高祖役行者の遺徳を偲んで行う法要。

当日は茶道速水流宗匠による献茶式、法華三味供、採橙大護摩供など盛大に行われます。


2021年 秋の特別公開

10月1日 (金) ~12月5日 (日)

※10/7~10 ・11/29拝観休止

※書院は修復工事中のため、ご拝観いただけません。

狩野永納・狩野益信筆 宸殿障壁画や宸殿、本堂など通常非公開の場所を拝観することができます。また、11月3日からは「一葉落ちて知る」と題し、若手日本画家3名による日本画展も開催され、作品を見学することができます。


智証大師講法要

11月29日

本山派修験道の密教教学の祖とされている智証大師の命日に、御徳をしのび報恩感謝を捧げます。奠供(てんく)作法が声明と供に行われ、他に見られない独特の法要が営まれます。